戦略と変化

久しぶりに

近所の英会話グループに参加したら、
子供のいじめの話が出て、ある人がこんな話をした。
「ボストンの高校に転校した日本人の高校生が、
半年間友達がいなかった。彼が髪の毛をモヒカンにしたら、
急にみんなが話し掛けてきて、友達ができた」
その戦略は、僕も何度か使ってきたからよく分かる。
(本当にモヒカンにしたことは1回しかないけど。。)
「他者に話し掛けて受け入れてもらう」という、
本来受け入れるべき「ゲームのルール」がある。
少年は「自分が特別な注目を浴びる」ことによって、
ルールを破壊したのだ。

思えば

僕の「人生1.0」は、ずっとそうやって、
ルールを破壊する方法ばかり模索していた気がする。
「深夜ラジオ番組で投稿常連になる」とか、
「ウェブで情報を発信する」とか、
いままでやってきたことは基本的にそういうことだ。
誰もがブログを持つことが当たり前になった頃には、
ウェブで日記を書くという遊びには飽きてしまう。
それは自分が飽きっぽいからだと思っていたが、
「自分でルールを作ったり壊したりできなくなるから」
興味を失ってしまうのだろう。なるほど。

そういう自分のよくないところは、

「自分が捨ててしまったものが持っている本当の価値」
「自分に理解できなかったものの真の可能性」
をちゃんと見なくなることだ。
これではいかんなあ、と思って、
今日仕事の帰りに買ってきたのが「BLOG HACKS」
というコンピュータの技術書なのだが、
読みはじめたら、いきなりBlog技術とは

「自分と社会の関係をデザインする技術」

である、と序文に書かれていて
(株式会社はてなの伊藤氏の言葉だ)
まさにこれが「どんなモヒカンを選ぶか」だと思った。

この数週間、

引きこもって勉強ばかりしていて思ったが、
技術には「変わることで人気を保っているもの」と、
「変わらないことで信頼を勝ち取っているもの」がある。
技術の話もなんなので、例えば
「笑っていいとも!」は(滅多に見ないから想像だが)
出演者もコーナーも時代や流行に合わせてどんどん変わる。
「徹子の部屋」は(これも想像だが)スタイルを変えない。
まあそういう対立項は、世間のあちこちにあると思う。
政党とか、音楽とか、芸能人とか、料理とか。
具体的には JavaScript と Flash と Perl と Ruby の
話を書いてみたのだが、長くなったので省略。。

千代田線の

表参道駅のホームで
「自己流から一流へ」
という某人材教育会社の看板を見ながら、
自分が自己流で食い散らかしてきたものを、
もういちど基礎から勉強しなくては、と思った。

補足

12月6日のミクシィ日記でこんなことを書いたら、
「共通性といじめ」という部分に反応した人と、
「変化しないこと」に反応した人がいて、興味深かった。
老舗のラーメンやバーのカクテルは、
季節や時代を敏感に感じ取りながら、
あるいはカウンターの相手の顔を見ながら、
相手に合わせて味を調節しつつも
「変わってないように感じさせることで信頼を勝ち取っている」
のだそうだ。
それって、音楽にもあるな。。。