写真 青い空と雲と建物と木々の緑

nishimotzの日記

  • 障害者の日

    12月9日は障害者の日だった。

    そんなことをまともに知らないまま、
    「視覚・聴覚に障害のある人たちのための
    放送バリアフリーシンポジウム」
    というのを聞きに行った。

    視覚に障害がある人の92%は
    「主な情報源はテレビ」。
    ラジオじゃないの?と思うのだが、
    「テレビの方が内容が充実している」
    「みんなが見ているものに合わせたい」
    というのが実情。
    そういう人たちのために必要なのは
    副音声などの「解説放送」。

    聴覚に障害がある人が使う「字幕放送」。
    2007年に生放送以外の番組への字幕の義務化、
    という目標に向かって放送局は動いている。
    ディジタル放送や音声認識という技術進歩により、
    現実的になってきたが、コストが課題。
    字幕だけでなく「手話放送」にもニーズがある。

    そういう障害者のための放送を行っている、
    「CS障害者放送統一機構」というNPO法人が、
    今回のシンポジウムの主催だった。

    主催団体や当事者達の主張を要約すれば、
    「我々は利用者のニーズを踏まえた活動をしているので、
    放送事業者との話し合いの場をもっと設けて欲しい」
    という感じだろうか。。。

    「放送のバリアフリー化」の必要性は
    みんな分かってくれるが、そのためにコストを払うか、
    あるいは字幕や手話を必要としない人の不利益に
    ならないようにできるか、というところに問題がある。

    少数の人々の特別なニーズを満たす以前に、
    放送はそもそも「多くの人」のためのものだから。

    そして、特にローカル局などでアクセシビリティを
    考慮するためには、放送事業者が地域と密着して、
    当事者と協力する必要があるとのこと。

    どっかで聞いたような話だ。

    少数の人々のための情報発信。
    当事者の参加。
    受信者がコンテンツに関与する「集合知」。

    放送は「みんなのための正確で客観的なもの」である。
    先日もゴルフ中継でランキングを間違えて放送した局が
    放送法違反という指摘を受けたり、
    大河ドラマで時代考証を間違えた台詞があったり、
    という話題があったばかりだ。
    「放送」はそれだけの縛りがある。
    だから放送と通信の境界は簡単には越えられない。

    放送は「ユニバーサルなサービス」である。
    ユニバーサルデザインにすることで、
    障害者だけではなく多くの人が利益を得られる。
    字幕放送がにぎやかな場所でのテレビ視聴に役立つ、など。。

    でも、ユニバーサルサービスは万能ではないし、
    法律で「これを義務づける」とか、
    技術で「これを自動化する」といったアプローチは、
    どうしてもすべてのニーズをカバーできない。

    テレビの緊急警報放送の音が鳴ったら
    ラジオをつけて何が起こったかを知る、
    という視覚障害者。

    字幕のついていないインタビューの内容を、
    生放送中に友人にメールで頼んで書き起こしてもらう、
    という聴覚障害者。

    そういう話は「だから私達は困っている」という
    事例だったりするのだが、
    こういう人と人とのやりとりを、
    うまく支援できないだろうか、と思ったりする。

    それにしても、
    実は視覚障害者よりも自分の方がテレビを見てない、
    という事実にちょっとショックを受けた。

  • 戦略と変化

    久しぶりに

    近所の英会話グループに参加したら、
    子供のいじめの話が出て、ある人がこんな話をした。
    「ボストンの高校に転校した日本人の高校生が、
    半年間友達がいなかった。彼が髪の毛をモヒカンにしたら、
    急にみんなが話し掛けてきて、友達ができた」
    その戦略は、僕も何度か使ってきたからよく分かる。
    (本当にモヒカンにしたことは1回しかないけど。。)
    「他者に話し掛けて受け入れてもらう」という、
    本来受け入れるべき「ゲームのルール」がある。
    少年は「自分が特別な注目を浴びる」ことによって、
    ルールを破壊したのだ。

    思えば

    僕の「人生1.0」は、ずっとそうやって、
    ルールを破壊する方法ばかり模索していた気がする。
    「深夜ラジオ番組で投稿常連になる」とか、
    「ウェブで情報を発信する」とか、
    いままでやってきたことは基本的にそういうことだ。
    誰もがブログを持つことが当たり前になった頃には、
    ウェブで日記を書くという遊びには飽きてしまう。
    それは自分が飽きっぽいからだと思っていたが、
    「自分でルールを作ったり壊したりできなくなるから」
    興味を失ってしまうのだろう。なるほど。

    そういう自分のよくないところは、

    「自分が捨ててしまったものが持っている本当の価値」
    「自分に理解できなかったものの真の可能性」
    をちゃんと見なくなることだ。
    これではいかんなあ、と思って、
    今日仕事の帰りに買ってきたのが「BLOG HACKS」
    というコンピュータの技術書なのだが、
    読みはじめたら、いきなりBlog技術とは

    「自分と社会の関係をデザインする技術」

    である、と序文に書かれていて
    (株式会社はてなの伊藤氏の言葉だ)
    まさにこれが「どんなモヒカンを選ぶか」だと思った。

    この数週間、

    引きこもって勉強ばかりしていて思ったが、
    技術には「変わることで人気を保っているもの」と、
    「変わらないことで信頼を勝ち取っているもの」がある。
    技術の話もなんなので、例えば
    「笑っていいとも!」は(滅多に見ないから想像だが)
    出演者もコーナーも時代や流行に合わせてどんどん変わる。
    「徹子の部屋」は(これも想像だが)スタイルを変えない。
    まあそういう対立項は、世間のあちこちにあると思う。
    政党とか、音楽とか、芸能人とか、料理とか。
    具体的には JavaScript と Flash と Perl と Ruby の
    話を書いてみたのだが、長くなったので省略。。

    千代田線の

    表参道駅のホームで
    「自己流から一流へ」
    という某人材教育会社の看板を見ながら、
    自分が自己流で食い散らかしてきたものを、
    もういちど基礎から勉強しなくては、と思った。

    補足

    12月6日のミクシィ日記でこんなことを書いたら、
    「共通性といじめ」という部分に反応した人と、
    「変化しないこと」に反応した人がいて、興味深かった。
    老舗のラーメンやバーのカクテルは、
    季節や時代を敏感に感じ取りながら、
    あるいはカウンターの相手の顔を見ながら、
    相手に合わせて味を調節しつつも
    「変わってないように感じさせることで信頼を勝ち取っている」
    のだそうだ。
    それって、音楽にもあるな。。。

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